虫送り資料室-4 (北日本)
Reference room - 4 (Northern Japan)

【ローソクもらい】
「ローソクもらい」と呼ばれる行事で虫送りを由来とし道内各地で行われている行事。
北海道の広報ホームページによると (以下引用)
「盆と同じ時期に、子供たちの「七夕飾り」や「ローソクもらい」が行われ、ローソクもらいは、缶トウロウや提灯を手にした学齢前から低学年の子供たちが集まって、はやし唄を歌いながらローソクを集める行事である。
地域によって異なるが、全道的に「ローソク出せ、出せよ、出さないとひっかくぞ、おまけにカッチャクぞ」と歌われる。ローソクもらいは、青森の子供ねぶたや「虫送り」など伝統的社会の行事に由来し、道内に広くみられる、子供の特徴ある行事だ。
◎北海道の広報HP https://www.pref.hokkaido.lg.jp/
尚、ローソクもらいの由来を証明するものとしてこんな一文もあります。
「ローソクもらいの由来として,江戸時代後期の函館市にはネプタを引いて通りを
練り歩く祭事が存在したことが,函館開港当時の資料「松前紀行」に記されている」
◎函館市の七タ行事「ローソクもらい」の実態 山崎 福太郎 信州大学機関リポジトリ(論文/PDF)より
【バッタキウポポ】帯広 ※虫送りではありませんが関連ある素材として記録しておきます。
帯広のアイヌの人たちに伝わるバッタの動きを模した踊り。
30年ほど前、この踊りを帯広で観た事があるのですが、常に
前かがみで踊る激しい振りに驚くのと同時に、バッタと一体
になることのできるアイヌの人たちの精神性に羨ましさを感
じました。
(以下、帯広カムイトウウポポ保存会会長 酒井奈々子さん
「帯広カムイトウウポポ保存会では「バッタキウポポ(バッタの踊り)」
が特に有名です。
これは明治の開拓期に十勝でバッタが大発生したときの大変さや苦労を今に伝承しています。
バッタは十勝のみならず日高山脈を越えて札幌近辺まで作物に大きな被害を及ぼし、道内各地で和人とアイヌが一緒になってバッタを駆除しました。
今は有数の農業地帯として知られる十勝ですが、当時試みた日本の稲作は寒い北海道に適さず、亜寒帯気候での開拓は苦労と失敗の連続でした。北海道の地理や自然を良く知るアイヌの力無くしては、北の大地を開拓することはできなかったのです。先住民として北海道に根付いていたアイヌだからこそ、今でも語れる歴史や思いがあります。




【相内の虫送り 】
青森県五所川原市相内(旧・北津軽郡相内村。江戸時代における陸奥国津軽郡相内村、幕藩体制下の弘前藩知行相内村)に伝わる。青森県指定無形民俗文化財(2011年〈平成23年〉4月6日指定)。
相内の虫送りは、津軽地方の虫送りの原型といわれ、長い歴史があると伝えられています。
虫送りに欠かせない太刀振りの踊りは、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際、太刀や棒切れを振りかざして追い払ったという伝説に由来し、田植え後の豊作を祈願する行事として受け継がれています。
五穀豊穣と無病息災を祈願する勇壮な祭りとして知られ、田植えが終わった「さなぶり」の行事の一つです。
笛や太鼓の囃子にあわせ、コミカルな動きをする荒馬に太刀振りのハネトが続きます。また、蛇体をかたどった5mの長虫を作り、山車で村中を練り歩きます。太刀振りは、太刀を片手に持ち、はやし言葉“ ハネロジャハネロ・イツモコンダバドウシベナ” とともに踊ります。
虫を乗せた台車-荒馬と馬追い二人-太刀振りのハネト-ハネトのそばで太鼓・笛・鐘の囃子・その他(もち米の粉を水で練ったものをオリタに入れ担ぐ人、小さい虫を担ぐ人、酒樽を二人で担ぐ人など、いずれも道化師的役割である。)の順で進みます。太刀は他地域とは違う形(稲穂の形に似せている)をしており、虫の頭部にも特徴があります。
【奥津軽虫と火まつり】
青森県五所川原市(旧・北津軽郡五所川原村界隈。江戸時代における陸奥国津軽郡の喰川村・平井村・柏原村界隈、幕藩体制下の弘前藩知行喰川村・平井村・柏原村界隈)に伝わる。五所川原市指定無形民俗文化財。1964年(昭和39年)、常陸宮正仁親王と旧弘前藩津軽家出身の津軽華子(華子妃)が、結婚の報告のために五所川原を訪れた際、各集落ごとに実施されていた虫送りを中心市街地に集めて盛大に執り行ったことをきっかけに、虫送りは市の祭りとして実施されるようになった。さらに1973年(昭和48年)、五所川原青年会議所が地域の虫送りに火祭りの要素を取り入れたことで現在の「奥津軽虫と火まつり」が誕生した。
(以上参考 / wikipedia / 青森県HP)
※虫送りについて調べていて驚いたことの一つに、有名な「ねぷた祭り」の起源には虫送りが関係していたということ。
青森県のホームページには「青森ねぶた祭は、七夕祭りの灯籠(とうろう)流しの変形であろうといわれていますが、その起源(きげん)は定かではありません。
奈良時代(710年~794年)に中国から渡来した「七夕祭」と、古来から津軽にあった習俗(しゅうぞく)と精霊(せいれい)送り、人形、虫送りなどの行事が一体化して、紙と竹、ローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇(おうぎ)ねぶたになったと考えられています。」とあります。
伝統的と思われている祭りも時代によって常に変化し続けているのですね。


ムシは4~5メートルほどの長さで、巡行の最終地点となる産土神社の神明宮境内の木に掛けられ、1年間土地の田圃を見守ると伝えられています。守り神なんですね。
ちなみに昔「虫」という字は「毒蛇」のことだったそうです。


秋田県指定無形民俗文化財(1992年〈平成4年〉4月10日、県記録選択)で、指定名称は「木境大物忌神社の虫除け祭り」、通称は「虫除け祭り」。関連社は木境大物忌神社で、春季大祭として毎年の新暦7月8日に執り行われる。
神社で行われる虫送りの神事。
木境大物忌神社は、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)と同神格の神であるともいわれ、
食糧を司る神であり、農作物の豊穣をもたらす神です。
稲の成長が盛んになる7月8日頃の虫が発生しやすく、稲作管理の重要な月に虫を追
い払う為の儀礼を行います。祭礼では、杉材で作った長さ60センチ、幅15センチの舟形に神官が虫封じの秘儀を行い、五穀を害する虫や悪霊を封じて虫送り祭式を行います。その後舟形は、町はずれの小板戸集落の当番が背負い、針ヶ岡の獅子に見送られ、子吉川に流されます。
【濁川の虫送り】 秋田県鹿角郡小坂町濁川
坂町川上(かわかみ)地域の濁川(にごりかわ)集落で継承する「虫送り」は、江戸時代に始まったと伝わる行事で、小坂町の無形民俗文化財に指定されています。
農作物に付く悪い虫を払う厄払い行事で、毎年、田植え後の6月上旬に行っています。
虫送り当日の朝、住民たちが集まって、男女のわら人形を作ります。お昼頃には、わら人形ができあがり、摺臼野(すりうすの)神社(※旧川上神社)で神事を行った後、「旦那」という役名の住民を先頭に、「槍持ち」、「はさみ箱」、わら人形を持つ「白奴(しろやっこ)」「赤奴(あかやっこ)」と列を連ね、大名行列のように集落内を巡行します。巡行の途中に住民と会うと、人形を触らせ、人に付いた悪い虫(病)を移します。巡行の最後には、川原でわら人形や道具を焼き、一年の厄を払います。
(以上参考 / wikipedia / 由利本荘市民俗芸能伝承館 /秋田のちいさな祭りたち)








【 蝗除祭 / こうじょさい】山形県鶴岡市三瀬 気比神社 祭礼
神事というよりは地域的な行事として、悪虫退散と五穀豊穣を祈ります。
三瀬では昔から気比神社に携わる、特に宮前通りの方々だけで執り行っています。昔は子ども達が舟を担いで「なに虫送れば~」「稲虫送るぜ~」の掛け声とともに海岸までくねり歩き、海に流すものでしたが、子どもの減少と漁業の保護のため形式を変えています。(Facebookより)
【虫送り】 山形県牛房野(ごぼうの)地区
牛房野はホタルの里として有名なようです。行事の詳細は分かりませんが、青森五所川原と似たような大きな「虫」を先頭に空き缶を利用した松明を持った隊列を組み地区内を練り歩き、村はずれ(?)まで歩いて最後に「虫」に火を着けて送るようです。








※高橋の虫送りについての説明は省きます。
昔からこの地に伝わる虫送りは、毎年つゆ明けの7月の初め、稲(いね)やタバコの作物の豊作(ほうさく)をいのり行われます。子どもたちが長い行列を作り、バチでならす大きな鐘(かね)を先頭に、家々で作った和紙に願いをこめた虫送りの札をせおい、全員で「稲の虫を送らんべ~たばこの虫を送らんべ~・・・」と合唱します。地区内のお寺から出発し、家々をまわり近くの大きな川へ虫を送るのが、この季節をいろどる風物詩(ふうぶつし)となっています。
(うつくしま電子辞典 / 新鶴の虫送り)より ※2024年の模様 https://www.instagram.com/reel/C9jdczEtWJD/
【虫送り】 福島県大沼郡会津美里町西勝地区
「萬虫送り」と書いた笹飾り(短冊)を屋根につけた、藁(カヤ)で作ったシンプルな虫かごを、子供らが担いであぜ道を練り歩き、畑の外れで炊き上げます。歌と太鼓が夕景の野に静かに響きます。
【虫送り】 福島県大沼郡三島町西方・名入・大石田 (三島町交流センター 山びこのblogより)
西方の「虫送り」は、例年6月の第2土曜日に行われる行事で、かつてはサナブリに行っていた。
中学生の年長者が親方となり準備から本番までを取り仕切る。地区の上(カミ)から下(シモ)に向かって、子どもたちが荷車につけた縄を引きながら、太鼓の音に合わせて、田畑の虫を追い払うための唱え言葉を唄いながら練り歩き、作物の豊作を祈願する。
県の無形民俗文化財に指定されている。
<唱え言葉>
デンバラ虫のオイクラヨイヨイ
何虫もオイクラヨイヨイ
万(よろず)の虫もオイクラヨイヨイ
※三島町教育委員会が、昭和四十年代後半に収録したカセットテープに
残る虫追い唄は以下のとおり。
何虫も追いぐるヤイ
コメラの虫も追いぐるヤイ
デンバラ虫も追いぐるヤイ
<西方地区地域づくりサポート事業実行委員会『西方の記憶―つなぐ』より>
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名入りの虫送りは、サナブリに行うことが多い。日取りは子どもたちが決めていた時代もあったが、近年は6月の第2土、日曜日のいずれかが多い、養蚕(ようさん)が盛んな時期は6月下旬の春蚕終了後に行うこともあった。平成24年、25年は6月の第3土曜日に行っている。
中学生が行事の主体となり、年長者が指導している。あらかじめ虫籠(むしかご)、手持ちの提灯(ちょうちん)、旗(はた)、タイマツ、太鼓を載せるリヤカーなどを準備する。虫籠は雑木で骨組を作り、稲藁を用いて切妻(きりつま)に葺(ふ)いたもので、担ぐことができるように棒をさす。かつては麦藁を用いた。虫籠には紙袋に入れた青虫などの害虫だけでなく、蛇を入れたとも云うが今はしない。籠のグシには「悪虫送り」と書いた小旗(タンザク)を何本も挿す。手持ちの提灯は画用紙で作り、先頭の竹に下げるものもある。リヤカーには太鼓を載せ周囲を葉つきの雑木、造花などで飾り、結びつけたロープを年少の子どもたちが曳(ひ)く。以前は車を使わず棒に通した太鼓であった。
午後7時半頃、行列が名入集落の上手(かみて)の境あたりから下手(しもて)に進む。その際、太鼓に合わせて掛け声を掛けるが、世代によって変化があり、戦前は「何虫もおーくれよ(ドンドン)、でんばら虫もおーくれよ(ドンドン)」であったと云う。
10年くらい前までは集落を通り抜け新しい道を通って、出発した場所の近くに戻り虫籠に火を付けて鉄橋から只見川に投げ落としていた。かつては集落を通って西方地区との村境まで行き、虫籠の中に使った道具などを詰め、それに火をつけてから崖から投げ落としたとも云う。
<『三島町の年中行事』記載のものを近年の変化を踏まえ、一部改稿>
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大石田ではこの行事をデンバラ虫などとも呼んだ。かつてはサナブリの土用次郎に行ったが、近年は7月の第2土曜日に実施する。小中学生のうち上級生が中心に実施する。
手持ちの提灯は50個ほど作るので約1か月半前から夜間に公民館に集まる。以前は各家から集めた古提灯と蝋燭でまかなった。最近は当日にまとめて作っている。大石田地区では三角形の虫籠を作る。現在は親たちが作るがかつては男の子が骨組の雑木を伐り出し、女子が周囲を葺くための「デンバラ虫の草(メドハギ)」を採取し、仕事当日に虚空蔵様の近くの広場で組み立てた。
虫籠のグシには小旗を何本も立てる。かつては行列に加わる者は提灯ではなく小旗を手にした。これは細長い紙に「悪虫送り」と墨書したものを竹の棒に下げたものであるが、かつては旗の上下端に付けた葦にデンバラ虫の花(タチアオイ)を押して飾りにした。小さな子どもたちは青虫やてんとう虫、毛虫などを袋に集めて持参し提灯と交換し、虫籠に納める。
夜になると集落の上手に集まり、風船や紙飾りを下げた竹を先頭に、虫籠、提灯を持ち綱を曳く子どもたち、最後尾には太鼓を載せたリヤカーが付く。
リヤカーは雑木を建て提灯などで飾り付けをする。先頭の竹は、もとは貰い受けた提灯を下げた雑木であったという。太鼓の音に合わせて掛け声をかけながら行列し、集落の下手に到着すると虫籠や提灯などを燃やす。以前は前の沢の川そばで燃やした。
掛け声は戦前は「でんばら虫おーくれよー、何虫おーくれよ」だったが、その後「おくれやい」と変わり、さらに昭和30年から40年にかけて、掛け声の合間に「それ」と加えるようになった。











