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高橋の虫送り
歴史と特色
History and Characteristics of the Takahashi Mushi-okuri

「虫送りの源流」

一般的には全国の農村部を中心に江戸時代から始まった「農業害虫を追い払い、五穀豊穣を祈る年間行事のひとつ」とされている虫送りですが、愛知県春日井市の味美白山神社や秋田県仙北市の太平神社、或いは滋賀県近江八幡市などでは除蝗祭という「虫送り」行事が毎年行なわれ、古事記、日本書紀に並ぶ歴史書、古語拾遺に記される稲虫防除のための神代(縄文後期~弥生初期)の儀式を起源としています。

 

確かに現在の虫送りは大飢饉や幕府や藩による新田開発などを要因とし、江戸時代に全国で始まったとする事に誤りはないかもしれませんが、そもそもを辿れば、その源流は「この国で稲作が始まった頃にある。」とする方が自然ではないでしょうか。

 

「虫送り」の背景

その祭りが大切に受け継がれてきた背景には、昔人の精神性も大切なキーワードです。

何故昔の人たちは自分たちにとって都合の悪い「いきもの」を、殺虫や駆除といった感覚ではなく、そのいのちを「送り」、更には人と同じように弔い、供養をし、丁寧に黄泉の国へと送ったのか。

そこには先ず古代人の精神性を支えていたアニミズムや自然崇拝といった世界観の存在があると考えますが、それは決して観念的なものではなく、人々の暮らしは日々、自然と共にあり、恵みや脅威をリアルに感じ、それらによって生かされているという感覚が当たり前の事だったはずです。そしてその厳しい環境の中で生き抜くためには、自然環境を構成しているいきもの、ひとつひとつの生態を観察し身近な生命の存在として理解していたのではないのでしょうか。

また後には仏教の影響もあり、昔人は先祖の霊と共に「いきとしいけるもの」すべての命と魂に対する畏敬の念を当たり前の感覚として持ちえていたのではないでしょうか。

 

「虫送り」と「虫供養」

虫送りと似た行事で「虫供養」という行事があります。

「虫送り」とは前出の通り「稲など作物につく虫を追い払う行事」。そして「虫供養」は「農耕の際に殺めた虫類の霊を慰め供養する行事」で、会津では二つの行事が対をなす形で別々な時期に行なわれていたことが、貞享二年(1685年)の風俗帳(江戸時代などに地域の生活習慣、信仰、年中行事などを記した文献)やその後の文化年間の風俗帳に記されていています。そして地域にもよるようですが「虫送り」は害虫が発生した時に限って行なわれる不定期な行事で、サナブリの頃に行われ、「虫供養」は日にちを固定した年中行事として行なわれていました。

尚、会津では現在も三島町早戸地区で旧暦の10月10日(現11月末)に「虫供養」を単独で行なっています。

「害虫という概念」

前出の「虫送りの源流」にも記しましたように「虫送り」を現代では「害虫を追い払う行事」と紹介していますが、では「害虫」という概念はいつ頃生まれたのか。

こちらをご覧ください。

当ホームページblog 「害虫の誕生 ―虫からみた日本史」瀬戸口明久著

この著書のレビューを重複して引用します。
「明治期に、自然物を「有益/有害」で切り分けていく西洋科学精神が流入した時から、害虫パージの歴史が始まった。手作業での駆除、天敵導入、誘蛾灯、そして殺虫剤。時代は正に大戦期。殺虫剤から毒ガス兵器へ進み、人間に使用される。おお、人間こそが地上最悪の害虫だったのか、とシェイクスピア悲劇のように嘆き、サイエンスオペラの閉幕。」

 

虫送りの歴史が始まったとされる江戸期、1600年初頭からの260年間、農民には「害虫」という概念はなかったのです。更には前出の通り虫送りの源流を神代をとするならば更に2000年以上、この国の人々に害虫という概念が存在しなかった歴史の追加です。

そのことからも虫送りの歴史とその精神的な背景と目的は、単に害虫を「防除、駆除」するための祭事ではなかったであろうことは明らかです。

つまり虫送りは、自分たち「人」の生命を支えるために犠牲となったいのち、魂、そして自然への畏敬を表し、そのことによって祟りなく自然の恵みがこれからもありますようにと祈った場だった。それがこの祭事の本質だったのではなかったのでしょうか。

 

 

「高橋虫送りの歴史」

 

高橋の虫送りの起源がいつかなのかは文献もなく、また口伝による情報も語り継がれていないので、定かではありませんが、前出の通り江戸時代にあった事は江戸時代の農書「会津農書」や風俗帳にも虫送りについての記述があるので、その頃と推定されますが、風俗帳には「虫送り」が現在の形ではなく、神事的な儀式として行なわれていたことが記されています。

 

尚、現在の聞き取りや、後述文献によると、以前、尾岐窪地区、冑地区、それぞれに行なわれていた虫送りが、昭和41年に町指定重要無形民俗文化財に指定されるにあたり合同で行なわれるようになった。ということですので、それが現在の「高橋虫送り」の起源であることは間違いありません
ちなみにその年、地区では行事を運営する「保存会」を発足し、各地区の区長以下役員が毎年持ち回りで保存会の役員を務める形で、コロナ渦など幾度かの中止を経て2023年まで約60年間、54回の開催を続けて来られましたが、尾岐窪地区、冑地区の虫送りがいつ、そもそもどのような経緯で始まったのかは、前出の通り定かではなく、今後の更なる検証が必要な状況です。

 

「高橋の虫送りの形態」


【虫かごの様相と素材の違い】
前出の通り高橋の虫送りでは尾岐窪地区、冑地区、写真の通りそれぞれ特色の違う虫かごが製作されます。
骨組みの基礎の材料はクルミのY字に分かれた枝、接続部を藁縄を使うという共通点はありますが、尾岐窪地区では現在、ナラなど落葉広葉樹の枝、カリンの枝、竹、フジ蔓、カヤなどを使用します。完成した籠はタチアオイ、アジサイなどの野花で装飾された後、幣束を立てます。

一方冑地区の虫かごはクルミの骨組みの他、ヌルデの幹、カヤ、ホオノキの葉、竹を使用します。
完成した籠は「萬虫送り」と書かれた習字を取りつけた笹飾りで装飾され、やはり最後に幣束を立てます。

 

【虫かご作り】
殺めてしまった虫や小動物の魂を納める棺となる虫かごを、尾岐窪地区では開催の一週間ほど前、冑地区では当日の朝から作ります。
それぞれ昔はどのように作られていたか、という記述が、郷土史家、故田中常意氏の聞き取りで残されていますので引用させていただきます。

 

「尾岐窪の方の篭作りは、昔は部落内の高学年から小学生までの男子が活躍した。数班に分かれ作業の内容がきめられ詰所(陣屋とも言う)と、篭を作る場所作りから始まる。7、80年程前は高等科(昔の尋常小学校時代の高学年)の人が大将(親方)になり、経験者の助言を受けながら、下級生を指揮し作業に当たるのが習わしであった。

 

 詰所や虫篭を作る場所は、住んで居る部落に近い山麓の杉林で内部に2メートル50センチ四方位の空間があり、傾斜のゆるい、水はけの良い所を選び周囲の立木を利用し、地上より高さ70センチ位の処と、1メートル50センチぐらいのところに横木を二段に縛り付け、出入口にする所を残してそこに青葉の付いた雑木の枝や萱などで内部が見えないように外側から棚を作って囲う。

 

 詰所と作業をする所は別で大将格の者だけは作業場内に居場所を置いた。

 作業の分担は、高学年者は材料集めや虫篭作りの手伝え、小学生の男児は小間使いや藤蔓採りなどをした。藤蔓は細いものはそのまま使うが太いものは叩いて皮をむき適当に裂いて、縄、紐の代りに用いた。この藤蔓だが虫篭作りや詰所造りにかなりの量が必要であり、子供達は杉林内などを捜して採って来るのであるが、此の事は良質の杉を育てるのに大いに役立っているため、山の持主から大変喜ばれているという話もしてくれた。」

 

尚、20年ほど前からは、山仕事と大工も生業とされていた星 清伍さんを中心に数名で作られてきました。

冑地区の虫かご作りについても聞き取りがされていますので、併せて引用します。

「記録もないので定かではないが大分古く、昔から上冑に居を構えている4軒(現在も4軒しか居住していない)の家の主人と中冑に住む一軒の家の主人(中冑には五、六世帯が住んでいる)の5人で代々篭作りを継承してきた。最近になって中冑の主人が亡くなり女世帯となったため4人で作っているという。作業をする際は、その人達の座る場所も決まっているそうだ。」「虫篭作りは昔は二日位要したそうだが最近は当日一日で仕上げるという。作る場所は村の神社内である」

尚、近年は上冑は3件になり、3名で製作を担っていました。


【行事形態の特色】

全国の虫送りを調べると、高橋の虫送りの特色が浮かび上がります。


一つは開催の時期。

虫送り行事の多くは「さなぶり」の時期、6月に執り行われている場所が多いのですが、当虫送りの開催は7月19日、夏土用に入る前日として来ました。厳密にいうと土用の入りは年によって違うのですが、当地区ではそのように継がれてきました。

ちなみに「さなぶり」は田植えを終えたころ。「夏土用」はウンカの発生する時期です。

もう一つは「虫供養」を「虫送り」の中で同時に行なう。ということ。
前出したように会津にも三島町早戸地区では「虫供養」が単独で旧歴の10月10日(陽暦11月末)に現在も行なわれていますが、高橋の虫送りでは行事の要として地元菩提寺の僧侶による虫供養と五穀豊穣の祈りがなされます。

虫送りと虫供養が合体し、両者が一つの土俵で共に主役となり完結する行事形態となっています。

勿論、かつては別々に行なわれていた可能性も十分に考えられますが、これが現在の高橋の虫送りの個性の一つです。

 

そして更には「虫かご」の存在と形状。
筆者が虫送りを「高橋の虫送り」しか知らなかった頃、行事に「虫かご」は必須アイテムなんだ…と思っていましたが、全国で行なわれてきた虫送りを知ると、行事形態も、使用されるアイテムも千差万別であり、当虫送りのように幼児が乗れるような大きな虫かごを作っている場所は稀だということが分かりました。

 

当ホームページ 全国の虫送りより

「虫送りの一日」

さて、それでは高橋の虫送りが、先ず昭和の終わりころまで、当日どのように執り行われていたのかを、前出の郷土史家、故田中常意氏の聞き取りから時間軸を追って紹介します。

 

「(冑の)虫篭は、昔から区長元で人夫二人を雇い上げこれを担いでもらい、区長は羽織袴で(現在では背広姿の人もあるという)弓張り提灯を持って先頭になり出発するのであるが、行列的なものではなく、大人も子供も「付いて行ってみるか」という人達が後に続く程度だという。

 

 午后6時上冑を出発、中冑、元冑(現公会堂前)を経て小山の入口に至り、此処で小山の区長と人夫に引継ぐ。その際特別の決まりなどはなく「引継ぎます。よろしくお願いします。」引受けた方では「ご苦労さまでした。」の挨拶程度のもので、引継ぎが終了すれば冑の人達は帰るという。小山の区長達も冑の人達と同様虫篭を仁王の小学校の処まで担ぎ、仁王の区長に同じ要領で引継ぎ、最后に仁王の区長達が高橋の橋の上まで送るのが通常の経路になっていたそうだ。

 

 昔からの伝統で担いでさがった虫篭も昭和の初め頃からはリヤカーに乗せてさがるようになり、更に車社会になって暫くしてから、上冑の人が同じ経路をたどり、引継なしで仁王の船岡山の入口まで自動車で直送するようになったという。そこからは仁王の区長が時間を見て、人夫の二人が担いだ虫篭の先になって高橋の橋の上まで送るように変わってしまったということである。」

 

(尾岐窪は)

「こちらの方の行列だが当日夕方から大人の応援を受け高学年の者が主宰となり、小学校六年生(十三才)の男児が面を被り槍を持って、弓張提灯を持った先頭の区長に続き、年長者が虫篭を担ぎ行列を組み、大人の人が法螺貝を吹きながら高橋(旧高橋)の橋の上まで下っていた。

 

 現在もこの伝統を守ってはいるが、虫篭を担ぐ人が中学生から大人に(交代で担ぐので四、五人)変ったことと、最近の少子化により女児も行列に参加させるようになったという話である。」

「虫かごの合流」

 

 「両者橋の上に到着するとそこで東西寺院の住職が虫供養を行ない法螺貝を吹き、虫篭を橋の上から宮川に流される。そのあと、子供達の手作りの灯籠が数十個川岸から流され行事のすべてが終了する。」

以上の参考文献

・「害虫の誕生 ―虫からみた日本史」瀬戸口明久著

​・「福島の民俗 No31 三島町の虫送りと虫供養」 岩崎真幸著

・「年中行事の今昔(会津美里町)」田中常意 著

​・会津高田町史 第六巻 民俗 各論編Ⅱ

 

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以上がおおよその当日の行事の流れで、筆者が行事の運営に関わり始めた10年前頃には高橋の橋上で子供花火なども行なわれていました。

 

「リニューアルした高橋の虫送り」

伝統文化は歴史を振り返れば明らかですが、決して固定的なスタイルを保持し続けてきているわけではありません。高橋の虫送りも、もともとは別々の地区、それぞれで行なわれていたものが60年前に合同で行なう形に変化をし伝承されてきました。


地区保存会運営による事業から運営が任意団体の当会へ移行して3年目。

当会では、形態に宿る伝統を次世代につなげてゆくことも大切な事業と位置づけていますが、更には行事の本質とも言える、背景にある昔人の精神性に宿る大切なメッセージを伝えてゆくことにも重きを置きリスタートをしました。

ご紹介の最後に、リニューアルした高橋の虫送りの昨年の準備から当日までの流れを動画でご覧ください。

 

高橋の虫送りをつなぐ会 事務局

​〒969-6245 福島県大沼郡会津美里町西本字元冑甲908-1

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